2015年01月27日

社会人になって変わったこと

学生から社会人になって変わったこととというのをふと最近感じたので書いてみることにしました。
27年間学生をしてきて社会との接点がアルバイトか大学もしくは大学院くらいしかなかったため、社会に出て変わったな俺という点と全く変わんねえなというとこがいくつかあります。
学生の皆さんからしたら社会人ってどう思いますでしょうか。恐らく安い給料でやりたくもないことをして下げたくもない頭をぺこぺこしないといけないという印象が強いでしょうしおそらくそれは当たってると働いて1年も経ってませんが何となく思いました。
ただ、やはり本来関わらないはずの人間と仕事という面で関わらざるを得ないというところからビジネスマナーといったものが生まれたり、意識高い学生が生まれたりしたんじゃないかなと。まあ僕の感想とか置いといて変わったものを順番に上げていきましょうか。

まず一つ目は時間ですね。よく社会人は時間を守らないといけないなど言われてるように時間にルーズだとそれだけで信頼を損なってしまいます。時間にずぼらで能力があったら問題ないやろと思ってた僕も、待ち合わせの際誰かが遅れたらその分またないといけないわけです。待たせやがってぶっ○すとまでは思いませんがいい大人を何分も無駄な時間で待たせるのは良くないなあと思って最近は時間前行動を心がけるようになりました。ちなみにうちの社長は話があるから○時に待ち合わせねと言ってもきっかり10分は遅れてやってきます。そろそろぶっ殺したいです。

そしてもう一つは情報を伝えることの大事さ。俗に言うとコミュ力ってやつですかね。
ITというからパソコンとか機械とかカタカタするからあまり人と話さなくて済むから俺っちでもいけるやん!
と思ってこの業界にはいる人がいますけど意外とというかかなり求められます。
何故かというとやはりコミュニケーションをとる人間が下手な割合がほかの業界と比べて多いため、彼らの情報を正確に聞き取ったり、また人にはなさないといけないからです。
今の現場と前の現場を2つほどしか経験してないですが、物事を説明する際に自分の主観を入れたり「あうあう」となっちゃう人はいますが、こっちはトラブルが起きたときや話を聞く必要があるときに「あうあう」などと言われたりISISに息子を拉致されたのになぜか原発の不必要性を語るみたいな頓珍漢なことを言うとぶっ殺すと思ってしまいます。だから社会人になってからホウレンソウをとにかく心がけるようにしてます。
えっちなお店でフェラリオをされて行くときに無言で射精する。そんな男にはなりたくないものです。

そして3つ目は身だしなみ。
これもまあ社会人として基本ですが、正直プライベートで関わるよりも長い時間仕事の人間と過ごさないといけないため、臭かったり小汚かったりしたら何かムカつくものが湧いてきます。こいつ洗ってない犬の臭いするなと思う相手には大事な仕事を任せられないものです。身なりはきっちり整えたいものですね。

あと変わったこととしてよくほかの社会人の方が挙げられる言葉遣いというのがありますが、ITで働いてて自分がどこの会社で経由して現場に突っ込まれたか分からないので、御社だの弊社だの使う言葉が就活の時に比べてがくっと減りました。というか良くわからない会社名を名乗って仕事しないといけないのでたまに何のために働いてるのかわかんなくなります。
ただ、前にいた現場で常にセンスを持っていてあだ名が軍師というやつがいたんですけど、そいつの口癖が「我々は」だったのでそれが妙に気に入って僕も使うようになりました。

使用例)「残業代が出るとすれば我々もありがたいです」

これも学生の時の個ではなく集団生活をともにするため主語が変わったというのも僕の中では大きな変化です。仲間意識というか仕事をする上で共同してやろうという意識が芽生えたのかもしれません。

あともう一つはこれは多分僕だけだと思いますけど靴下の使用頻度が上がってしょっちゅう穴があくようになりました。学生の頃は外に出るの面倒だし靴下履かなくていいやとはかないで外に出たりしてましたが、あいにく現代社会において裸足で靴を履くのは石田純一くらいしか許されてないためしぶしぶ靴下を履いているんですがとにかくこれが破ける。
今も前の現場も靴を脱いで仕事をしないといけない部屋に閉じ込められるため靴下に穴があいてるとやっぱり目立つんですよね。

この間も一緒に働いている同僚に「ひろ氏君靴下に穴が空いてるよ」と注意されたので何気なく「我々もこの靴下と同じように消耗品ですからね」と言ってお互い笑いましたが、きっと俺も話しした相手も目は笑ってなかったです。
愛想笑いをしないといけなくなったというのも変化したとこかもしれません。
とりとめもないような内容ですが、終わりです。
posted by ひろ氏 at 23:10| Comment(3) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月26日

自己責任論とは

 今回ISIS国で人質になった湯川春菜氏と後藤健二氏。この両者が捕まったのは自業自得であり死ぬのはやむを得ないという意見が今のネット世論にて論じられているため自己責任論とは何かについて論じたい。
 元々自己責任論が発祥したのは2004年に起きた香田証生氏が始まりであろう。2004年はインターネット社会の黎明期であり2ちゃんねるという大型掲示板が活発になった時期とも重なり、テロリストであるアルカイダにとらわれ政治的プロバガンダによって首を着られるという最悪の自体を招いた。だが、この時の世論(インターネット界隈であり実際に統計をとったわけではない要検証)では外務省が危険区域であると公表していた場所に、業務でもなく一般人が立ち入ったことで結果として拉致をされ殺された上に、政府に迷惑をかけたとして本人が悪いのではないかという自己責任という論が活発に議論された。
 この場合の自己責任の理論としては、他者に強制されることなく自己の意思で危険と称される地域に赴き、結果として殺害という事態を招いたことを自己責任であると論じたと思われる。確かに自分の意思で行った行為は全て自分で責任を取る必要があるため、自己責任であるというロジカルは否定はできない。ただ、この場合の自己の決断にどこまでのリスクを承知していたのかは本人の自己で判断がつくものであろうものなのか一塊の疑問が生じる。○○をすれば必ず殺される。そういう結果が生じれば人は恐らく○○をするという行為を避けるであろう。
 だが、この結果がどのようなものか想像ができないため○○という選択を選んでしまうのではないかと私は考える。論理の飛躍になるが、ドイツの社会学者ウルリッヒ=ベックはリスク社会という著書の中で、科学技術や産業経済の発展に伴って生み出されるリスクも飛躍的に顕著なものとなっていくと主張した。
 日々のエネルギーを得るために我々はリスクを背負わざるを得なくなったのだ。この場合、エネルギー問題において重大な損失を受けても全てそれを選んだ我々が悪く自己責任だと切り捨てることはできるのだろうか。また、必ずしも安全であると説明を受けてそれを受諾した後に起きた現象は全て自己責任であり、それを選択した本人が悪いと言い張るのは正しいのであろうか。この場合悪は嘘の説明を行い、それを選択させたものではなかろうか。
 いささか論理が飛躍したが、自己責任でありそれを選択した本人が悪いという論調がまかり通れば本質的に悪というものを見抜けず思考停止という名の思考の放棄につながらないかと私は考えた。

(この間仕事が終わってムラムラしたからえっちなお店に入ったらパネルマジックに騙されとんでもないブスが出てきてブチ切れたけどこれも自己責任なのかなと思った僕の感想です)
posted by ひろ氏 at 23:26| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする